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前書き
【単位】という概念は、人間が発明しました。 赤道1周のおよそ4000万分の1の距離、緯度の1分、4℃の水1リットル分の質量、氷が溶ける温度、水が沸騰する温度、真空中における2本の導線にはたらく力、足の長さや親指の幅に至るまで。人間は古今東西にわたり、あらゆる単位を発明していきました。
そして、それは【時間】にも当てはまります。
人間が存在しない間、時間という概念は測り手がいないまま、ただ動植物の生き死にを眺めていた傍観者に過ぎませんでした。宇宙が爆発し、地球が誕生し、海が生まれ、生物が蔓延り、ある種は滅び、生まれ、栄え、滅び、そしてまた生まれてきたのです。そこに、単位としての【時間】は存在しませんでした。ただただ輪廻が輪り、巡っていただけです。
その中でふと人間が生まれ、そして【時間】という概念も生まれました。 太陽が地球を一周する時間。その86400分の1。人類の歴史とはその小さな単位の積み重ねです。それからというもの、時が流れるのは早いものです。現人類が生まれてからたかだか数万年、46億年の歴史を持つ地球と比べると、実にちっぽけな存在です。その、あまねく時の積み重ねがあるからこそ、我々人類はここまで成長したといっても過言ではありません。
そんな時間の積み重ねが、突如として意味を成さなくなったら、我々はどうなってしまうのだろうか。
prelusion
西村知道を偲ぶ意味も込めて数カ月ぶり何度目かの鑑賞。いやぁ、やはり何度観ても名作です。 冒頭ののどかな青空とカモメの鳴き声、からの荒廃しきった砂色の大地が映る瞬間の緊張感は何度観ても飽きませんね。予告編を観ずに映画館で初見を堪能したお客さんはきっと幸福だったことでしょう。いや、どうだろ、「観る映画まちがえたかな?」としばらく困惑したでしょうか。いやでもあのサクラ先生の見事なケツはサクラ先生だよな……と混乱したでしょうか。私はサクラ先生のあの鋭い目つきが大好きです。
本編が始まりジャスト2分で針のない時計塔が何時とも知れぬ鐘を鳴らします。そこから舞台がガラッと変わり学園祭準備のカットに移り……もうこの映画の虜になってしまいます。何度も。
本作は、言わずと知れた押井守監督の最高傑作です。シナリオや構成、アニメーション作品としてのクオリティの高さ、監督の作家性、そしてそれらが100分そこらにギュッと収まっている奇跡のような異常な作品です。おそらくこの映画を秒単位で研究し尽くせば得られるものはきっと計り知れないでしょう。私はそこまでできる素養や前提知識を持っていないのでできませんが。口惜しや。
元々の鑑賞目的だった西村知道演じる校長の長台詞も好きですね。
「ま、年に一度の学園祭ですから生徒諸君の自主管理の尊重という意味からもですな、校長の私が、今さら口をさしはさむというのも、なんなのでありまして……。しかしながら、かの親鸞も申しておりますように、善人なおもて往生す、まして悪人においてをや。人はみな、ただ一人旅に出て、ふり返らずに、泣かないで歩くのであります。ああ、誰が知るや、百尺下の水の心……人間誰しも悩み苦しみ過ち、そして、成長し桃太郎は満州に渡ってジンギスカンになるのであります。かの大ギョエテいわく、苦悩を経て、大いなる快楽に至れ、と言うようなワケでして、何はともあれ、全員ケガ一つせず何より無事、これ名馬であります。くれぐれも安全第一で、そこんとこ、よろしく」
長台詞だから、というわけでなく、この言葉選びの巧みさというか、文章全体としての聞き心地の良さがたまらない名台詞といえます。似たような系統で言えば『パプリカ』の「オセアニア」とかあのへんもそれに該当しますね。
私が紹介するのも野暮なくらい「いいから観てくれ100分もないから」と言いたくなる名作中の名作です。オチの付け方も言ってしまえば有名なアレです。まさか未見はおりますまいが一応伏せます、念の為。
アニメーション作品としても見応えたっぷりです。学園祭のモブ含めコミカルに動くシーンや、有名な飯のシーンなど、今では考えられない時間と手間がかけられていることが伺えます。本作に限らず、この辺の時代のセル画アニメは総じて変態的に動くのがとても楽しいですね。『AKIRA』や『攻殻』など枚挙にいとまがありません。セル画って、作るのが大変だと聞いていたのですがね……。
さて。
同じような1日、同じような生活が何度も何度も繰り返されるという感覚は誰しもが覚えのある経験と私は思っています。小学生の頃は、大人になった自分の想像なんてまるでできませんでした。大人の自分は一体何をしていて、何を求めて生活しているのだろうと、学校では先生や友達、家では父や母や兄弟姉妹、時々会う祖父母や親戚に囲まれて、このままずっと生活していくのだろうか。そんなわけがないと思いつつも、そんな錯覚に囚われた人は、私だけではないと信じています。そう考えると、本作本編中のタイムループ表現も、この感覚を極端に表現した結果なのかもしれませんね。
当然ですが、現実はそうはいきません。小学生は中学生になり、高校、大学、就職し、そして社会の歯車となるべく巣立っていくのです。中途のルート選択で多少の差異はありましょうが。
しかし、そこは人間の持つ時間感覚の不思議なもので、大人になっても昔に感じたあの感覚は消えないままなのです。独身時代、素寒貧でカップ麺を啜っていたあの時。結婚し、子供が生まれ、育児に苛まれていたあの時。それぞれがそれぞれのデジャブを覚え続けるのです。不思議なものですね。ある一定の生活を続けると、人間はその生活以外の生活を認知しにくくなってしまうようです。かくいう私も、妻と子供二人がいなかった時の生活を想像できなくなりつつあります。まるで、自分が生まれてからずっとこの環境だったような、そんな気さえ起きてしまうのです。
人間は、基本的に夢の中に居続けて、時々息継ぎをするように現実に戻ってきているのかもしれませんね。傍観者に徹する時の輪廻は遠い昔の遺産ではなく、今もなお我々の生活で小さく巡り続けている。針を喪った友引高校の時計台のように。
夢邪鬼に頼らずとも、現実と同じ夢は既に目の前に拡がっている、そんな気がします。